昭和42年07月04日 朝の御理解



 二代金光様、四神金光様の御教えの中に「憎い、可愛い、惜しい、欲しいを取れば楽じゃ」と仰っています「憎い、可愛い、惜しい、欲しい」私どもの日日の生活の中に確かにこの憎い、可愛い、惜しい、欲しいと、それに確かに妬みと云う様な意味の言葉もあったと思いますが、そういう妬みと云った様なものがです、無くなって仕舞うおかげを頂かして貰うたら、楽でもあろう。
 なる程それがおかげを頂くだろうとこう思うのでございます。どうでしょうか。なかなかですね、これはもう私の体験ですけれども、憎むと云う様なこと段々とれてきますようですね。それでもやっぱり憎みと云うような人があります。人を憎む、ね、人からどう言われたら、それをその執念強う、あれからあんな事を言われたと云うて憎み続ける。そういう人はおかげを受けられません。
 もう信心の根本のところにおかげを受けてない証拠ですから。ね、ところがこの可愛いと云うのはなかなかですね、もう可愛いと思う心が神心じゃと仰るあれじゃあないのですね。神心とは違う。もうとにかく目の中にいれたっちゃ痛うなかごとあるというそのがり方がありますよね。いわゆる馬鹿可愛がりと云うのですよ。ね、特別にその人だけに情を掛けると云ったようなそういう可愛がり方では神心ではない。
 神心で云う可愛いと云うのは、ね、それこそ難波の近藤藤守先生が、ね、あの霞網で捕られようとして居る雀をご覧になってから、はあ、可愛いもんじゃと思われた。その事を教祖の神様に申し上げた時にです、その可愛いと思う心が神心ぞとこう仰った。いわゆるそれはその虫けら、雀一匹の上んでもですね、神心が使えれるという様な心をもって神心と云うのである。
 自分の好きなもんだけはもう目の中へ入れたっちゃ痛くない様な可愛がり方、これはいけないこりを取ることこれは私自身非常に難しいと思うですね。やはり人間ですから好き嫌いがございますからね。ですからまあそこのところを私は、まカバーする為にですね、もう自分の嫌いな物、嫌いな人と云うたら表現がおかしいですけれども、ですからそういう人を特にあの、ま大事に取り扱うと云った様なことでですね。
 まそのカバーしていって居るのでございますけれども、こんな事じゃいけんな、取次者としてこう云う事じゃいけん。ほんとに云うなら一様に見える様にならにゃいけん。神様の氏子としての見方が出来る様にならにゃいけん。いよいよ神心を示して行かなければならないなと云った様な事を思います。ね、ですから憎い可愛い、ね、それからまた難しいですね。惜しい、欲しいがあっちゃならんとです。
 ところがこれだけはおかげを受けて居るですね、私は。ところがほんなら私が今おかげを受けて居るからと云って、私が二十年前の事をその振り返って見るとやはり私も、その惜しい欲しいに苦しんだもんでございますけれども、段々信心修行のおかげでですね、この惜しい欲しいだけは、ほんとに自分の心の中から無くなって行きよることの有難さがもう身にしみます。
もうほんとに今、神様がですね、私の名前になっている財産と云うものがもし有るとするならば、いま要るぞと仰るならば今みーんな、ほんとに私は差し上げられる気持ちです。また自分の物とも思うとりませんけれど。ほら如何に私があのう好き者ですから、好き者と云うていろんな道楽がございますから、ね、なら書画骨董と云った様な物がああして色々沢山集まって来ております。
 もうそれはやっぱ一つの愛着と云う様なものがありますよ。それでもですもし神様がお要りと仰るなら、もういつでも放せますね私はもうこれはやっぱり信心修行の賜です。 ですから、段々私が今申しますように今私は難しいと思うて居るその可愛いであっても、段々おかげが頂けて行くものだと自分で思います。執着すると今日はその中からですね、私この憎いと人を憎むと。
 私はあの人が憎いそういう様なものがです、さらさら無くなって来るおかげを頂かせて貰うということはです、ね、憎むまい憎むまいと思うただけじゃいかんのです。やはり根本的なところが分からなければね、憎むだんじゃあない、その人にお礼が言いたいごたあると云うことになってくる。その人の事が祈らなければ居られないことになってくる。例えば商売すりゃ、商売仇き。もう仇きと云うからには憎いものである。
 私はその憎いと云う様な事がですね、如何に神様の気感に適わないか、お心に適わないか。もう親子でも憎み合うことがあります。特にその姑とまあ嫁さんという、ね、云うような中にその嫁姑の争いというのが憎み合うか。ね、ほんとにこの憎むと云う事をですね、先ず取らなければ和賀心にはなれないと云うことなんです。毎日毎日天地書附けを奉唱してです、ね、おかげのある、一心に願えおかげは和賀心にあり。
 和らぎ喜ぶ心にあるんだから、どうぞ和らぎ喜ぶ心を頂かせて下さいと云ったって、自分の心に憎む心があったらもう和賀心は生まれてこない、和の心は生まれて来ない。ね、先ず自分の心から憎いとか憎むとかという心をです、先ず除かなければ、この和賀心は絶対生まれて来ないのです。ね、ですからほんとにですね、そこんところをおかげを頂かして貰いたい。憎むだんじゃあない、そこの元が分からないかん。
 昨日私、テレビ室の前を通って居る時に、丁度あの野球の選手に金田と云う人が居りますね、有名な。あの人が何かこう誰かインタビューをやっているんですね。いわゆる一問一答やってるんです。その時、その言うて居ることがなかなか気に入った。と云うのがそんなことを言うて居りました。あなたがその勝ち続けられるその元と云うのは何処にあるかと云ったようなことをまあ聞いて居るらしいんです。
 それに、ま、金田と云うその選手が言って居ることがですね、「私がですね、相手を憎むと云う様な心が有るときには絶対勝ちません」ちゅた。それから言うても四神様の御教えがですたいね、成程憎い可愛いがあったんじゃ、おかげが受けられないことが分かるでしょうが。結局勝つか負けるかの勝負の世界にあってですたい、やはり勝負そのものがでしょうけれど、やはり勝負するからには勝たなきゃならない。
 為には相手を仇の様に憎むと云う心があってはですね、これは人は知らんけれども、自分はもう相手を憎んで居るような時にはもう絶対勝てない。負けた時によく検討すると、そういうものが内容にあるんだと云う意味のことを言うて居るですね。私今朝の御祈念に、その事をふっと思い出させて頂いたんですね。その金田さんの言うて居るその言葉を。そしたら神様からお知らせに頂きます事がですね。
 あの治めると言う字ですね、治と云う字。さんずい遍にムを書いて口と書いてある。と云う字をはっきりこう頂くんですよ。なるほどそうだな、憎むと、憎まんと、憎むとかその憎いとかと云うのはですね、結局信心が分からんから憎むのですよ。だから皆さんの心の中に憎いと云う様な心が起こった時にはですね、信心が分かっていない証拠、神様が分かってない証拠とまず思わなきゃいけませんね。
 毎日こうやってお参りはしよるけれども、もうあれが憎うしてたまらんと云う時にはですね、もう自分の心からですね、もう神様を取り外してしまって居る時だと云うことですよ。ね、その治と云うことについて私はどういう風に私はそれを頂いたらよいかとこう思う。ね、さんずいのこのさんずいは自然、成行きと云うことをお知らせを頂きます。それに片仮名のムが書いてあって口が書いてある。無口と、ね、
 本当の事を言うたらですね、自然の中に起きて来る事柄の中にです、私どもが一言だって挟むような事は起こってこないと云うこと。自然に起きて来る事の、どういうそれが難儀な問題であろうが、恥ずかしい思いをする問題であろうがです、偶然起こって来ることはないって。いうならある人から悪口を言われたり、様々な難儀な問題が起きて来ることも偶然と云うことはない。
 いわゆる神様が為され方に対してです、一口だって云うなら言い訳をする事は人間としては実は無いのだけれども、言い訳的な事を言うたりです。ね、あれが悪いからこれが悪いからと、あれがああ言うたと云うて自分を苦しめておるのです。そしておかげけられない元を造って行くのです。神様の為され方にはです、一言だって挟むところは実を云うたら無いのだと。私はそういうふうにその治と云う字から感じたんです。
 神様が分かって来る。神様のお働きと云うものが分かって来ると。昨日は私、親教会から午前中電話が掛かって参りました。すぐ来いと云うことですから参りました。私のここの教会設置問題、私の教会長問題のお話であった。まだ隣接教会の中にです、快いと思わない人達が何人もあると。だからも少しそのそれを時期を待てと云う様な意味のことであった。どんなに考えてもねえ。
 宗教関係の中に、人がこうやってそのまあ云うなら段々おかげを頂いて行くとをですね、どうこう言うたり思うたるすると云う様なことがあっちゃならない様に思うんですけれども、それが人の世なんです。ね、やはり憎いんです。やはり妬ましいんです。まあこりゃ言い過ぎかも知れませんよ。けれどもそうじゃあない、実を云うたら神様の働きだと云うことなんです。ですから私はその言うて居る人、妬ましいと言うて居る人。
 憎いと思うて居る人は私のためにほんとに気の毒だと思いました、私は昨日ばかりは私一人をもっと育てて下さる為に、いや合楽の教会をいよいよ立派な教会にして下さる、そのためにですねその人達が使われて居るんだと思うたらほんに気の毒だと私は思うた。と云う様にですね憎むだんじゃあない、そう云う風に自分の心と云うものが実際動いて来るようになるんです。今迄憎んで居った人にかえってお詫びしたい。
 お礼が言いたい。いやその人の事を切実に神心となり祈らなければ居られないと云う様なものが、私は生まれて来るのが私は信心だと思うのです。ね、どうぞ今日は四神様の御教えの中から、ね、どうしたならばお徳が受けられるか、どうしたならばおかげが受けられるかと云う様な意味合の方に対する御理解が、ね、憎い可愛い惜しい欲しいを取れば楽じゃと。まあ一遍にと云う訳にはまいりません、ね、
 ですから今日はその中の云うならば、憎いと云うこと憎むと云うことそういう様な心がもう影も私はあっちゃならない。憎まれる道理が無い。自然の働きだなのだもの。治めると治まる治自然の働きにはね、一言だってどうしてそういう事になるのかと云うて、言い訳と云うかそういう風に云うなら質問ですかね、でもする様な事は是から先だって無いと云うこと。ね、そこんところを有難く治まって合掌して受けて行くと云うこと。心を治めて、それを合掌して受けて行くと云うことが信心。
 それを有難く受けて行くと云うこと。ね、そして神心となりて例えばそれを祈らせて頂けると云う様な信心。特に今日はその憎い憎むと云う様な心をですね、私どもの心の中からです一つ厳密にですね、検討してみて無いと思いよったけれども、やはりこれも憎むうちに入るんだろう憎しの中に入るのだろう、と云う様なですねものを取り除かせて頂くおかげ。それには先ずほんとの神様がいわゆる自然の働きをですね、ほんとに神様の働きと頂き分からなければ出来ることではございませんですね。 
   どうぞ。